2017年7月14日

スマートフォンのフォルダを眺めていると犬の写真がたくさんあった。東京で暮らしている時に死んでしまったので、2年経っても、まだどこかで受け止めきれてない。そのクリーム色のミニチュアダックスフントの写真を見ていて思い出したことがあった。これまたすでに15年ほど前に死んだ父方の祖父の話だ。

祖父はガンで入院していた。大腸ガンだったように記憶している。犬は祖父が入院する1、2年ほど前に家にやってきた。ただ、祖父と犬が会ったのは一度だけで、可愛い盛りだった犬をなんとかして祖父に見せたいと思った俺は手紙を書いた。ケータイもなく、カメラも持っていない頃だ。手紙に犬の絵を描いた。

幼心、祖父には元気になってもらいたい、自由に歩いてもらいたいという思いだったと思う。犬の背中に羽を描いた。

手紙を書き終えて、届けてもらうために母親に渡したところ、いま思ってもアホらしいのだが、「羽が不吉だ」という。ただ、クレヨンかペンか、とにかく消しゴムが使えない用具で絵を描いたので母親と、一緒にいた父方の祖母は羽を黒塗りにした。

検閲の入った絵は羽よりも不吉で「お先真っ暗」な仕上がりだった。祖父だけではない。犬も背景の黒い円形に吸い込まれていってしまいそうで、恐ろしかった。それでも、俺は絵を描き直すわけでもなく、駄々をこねるでもなく、そのまま祖父のもとに渡るのを黙って見ていた。なにが不安なのかもよく分からなかったし、

それから、しばらくして祖父のいる病室をたずねると枕元に俺の描いた手紙が飾ってあった。やはり不吉に感じたし、祖父の「ありがとう」という礼に罪悪感を覚えた。

祖父が死んだときには、棺桶にその手紙を入れた。当然、周りの子供と一緒に泣いたのだが、手紙をみる必要がなくなる罪悪感から解放されて少しホッとした。

少し前に、徳島に出張に行ったときに、スマートフォンが壊れた。電源スイッチやスタートボタンを押しても、画面が暗転したまま動かない。電話ができないのも困るとは思ったが、犬の動画や写真が消えてしまうほうがよっぽど悲しかった。幸いスマートフォンは使えるようになり、データも損壊していなかった。どうにもそれだけは耐えられない気がした。

ただ、人にはそこまでの執着はわかない。一昨年、母方の祖父が亡くなったときには、5年近く会っていなかったこともあってか、ついに泣くことすらなかった。この先、誰が死んでもピンとこないまま、時間が経つにつれ死んだことすら忘れてしまうんだろう。小、中高、大、それぞれの人生の転機でいろいろな人間関係を切ってきたからこそ。

犬に対する執着は、たぶん、自分の愛が伝わっていると錯覚しているからだ。面倒な行き違いもなく、自分がなにを考えているか伝える必要もなく、なにより言葉を介さずとも、なにかが伝わる気がするのだ。

『告白』の熊太郎が愛した妻に不貞を働かれ殺す気持ち、殺しはしないが「あかん」毎日が続いてることには気づき始めてはいる。

もうこれ以上書いても、たぶん同じところをぐるぐる回り続けるだけだし、

2017年6月23日

今年の秋から愛媛県で国体が開かれる。単独開催は初めてのことだそう。国体弁当やマスコットキャラクターみきゃんを特命副知事に任命するなどで盛り上がっている。

先日、出勤日に昼飯を食べに行ったら店主が「他の飲食店ってタバコ対策どうしてるんですかね」と話しかけてきた。どうやら強制力はないものの、国体開催に向けて行政が喫煙者対策を進めたがっているのだそう。ちなみに店主も喫煙者。お昼時でも禁煙にはしない。「禁煙にしちゃうとお店の売り上げ減っちゃいそうで」とは言っていたが、少なくともお昼時に周りの目を気にすることなくタバコを吸っている客は、俺ら以外いないので変わらないだろう。

国はオリンピックに向けて飲食店での喫煙を禁止しようとしている。国体もその前哨戦。スポーツが健康を作りますとでも言いたげな方針に反吐が出る。これから3年間はますます喫煙者の肩身が狭くなるんだろうなと思うと辟易とする。フーコーに習って「死ぬ権利」とまではいわずとも、「今日も元気だタバコがうまい」くらいは言わせて欲しい。

 

2017年4月27日

松山に引っ越してきて約2ヶ月になるが、やっていることは東京にいた頃と変わっていないので特に不便はない。移動が不便になったくらいで、それも自転車を盗られたからだ。

タバコの本数は増えた。職場の人間がみな喫煙者だからだろう。あとは出張が多いため、車の中で吸ってしまう。

なにも書くことがないのはコンテンツに触れなくなったから。Trainspotting2は見たが、目がさめるほど面白かったわけではない。MTV映画の先駆けがベタなMTV映画に回収されていった。あのストーリーを寓話として見る試みには一切、魅力を感じない。ヘロイン要素がごっそり削られてしまったのは残念。

2016年9月18日

施川ユウキの『鬱ごはん』は、昨今の萌え萌えお食事マンガの流行と比較して読まれるべきだ。就活浪人している主人公が、もの思いにふけりながら飯を食うだけのマンガなのだが、食べている料理が大変つまらない。ミスタードーナツやらハンバーガー、回転寿司などのファーストフードがメインで、可愛い女の子が手の込んだ料理を幸せそうに食べる作品の対極にある。

店舗で飯を食うときは、他人にどう見られているかをぐだぐだと悩み続ける有様だし、一人で飯を食うときは、自らのうだつの上がらなさを美味くも不味くもない食品に重ねあわせて鬱になる主人公の心情吐露が続く。延々と続く、食事の作業感をこれでもかと言わんばかりに強調しているのは、もはや痛快さすら感じる。

一番印象的なのは、食事にまつわるグロテスクな面を不快なまでに細かく描写している点だ。例えば、主人公のおじさんがものを咀嚼するコマや、串かつのつけダレに虫の死骸や卵が沈んでいる妄想をしてしまうコマ、真夏のシンクにコバエが集まるコマなどなど。ふと日常生活で気になったり想像してしまったりする、食事中のグロテスクさを上手く描いている。日常的なルーティーンに時折首をもたげる、ネガティブな出来事。そこからドツボにはまっていく様は、まるで自分の生活をみているようだった。

2016年8月11日

子どもの頃、盆の時期は当事者じゃないけれども、よくわからないところで祭りのような雰囲気が広がっていて、年寄りが年寄りらしさをより増す時期だと思っていた。祖父母の家に行くと、普段あまり意識しない仏壇にこんもりと菓子が盛られていて、気付けば車に乗って遠い墓に連れられていた。楽しい思い出では断じてないので、ふわふわとした曖昧な記憶が、一体、何歳の頃なのかもわからないような漠然とした時間の思い出が、かすかに残っている行事の一つだと思う。

スケラッコの『盆の国』はそんな風景、時間を上手く描いたマンガだった。

送り火の前日、15日を何度も繰り返す時間の中でおしょらいさん(=ご先祖様)が見える少女(秋)が青年(夏夫)と出会って冒険をする、と書けばよくあるボーイミーツガール。この作品のミソはお盆をテーマにしているということ。ご先祖様が帰ってくるので、常世(=あの世)と浮世(=この世)の境界が曖昧になる季節なのだ。

終わらない15日におしょらいさんが溢れかえって、死者と生者=常世と浮世の区別がつかなくなる。後半の筋はよくあるもので、とにかく元の世界に戻すためにご先祖様をあの世に送り返す。

ストーリーの筋を追っていけばなんてことはないお盆をテーマにした少女の成長物語てな塩梅なのだが、絵柄や突然挿入される夏らしいイベントが心地よい。

例えば、このタイムリープの元凶となったであろう霊が住むお屋敷のシーンはザ・マンガっぽくて良い。おそらく筆ペンで描いた霊や、突如描かれる花火のシーンなど…おぼろげで断片的な記憶を上手く捉えていると思う。

冒険、気だるい暑さ、蝉の鳴き声、夕立、花火などなど、誰もが体験したことのある風景が描かれているのに、まるで自分が当事者ではないかところで盛り上がっている雰囲気を思い出させてくれる作品だった。

なにせ暦上は「立秋」。季節の変わり目に当たる時期なのだ。ゲリラ豪雨とか猛暑とか連日報道がある中では季節感もクソもないのだが。

2016年2月21日

パンティストッキングのような空の下』、『シオリエクスペリエンス 1~5巻』、『ラストメンヘラー』を読んだ。

全部、青春もの。俺はバカなのでストレートなメッセージにベタに感動してしまう。『シオリエクスペリエンス』が一番良かった。

バンドものはやっぱ面白い。『キラ☆キラ』、『ロッキン・ホース・バレリーナ』、『BLUE GIANT』等々…。蛸壺屋もだ。なぜ面白いか。読者である自分の挫折に何か大層な理由が出来たような気がするからだ。だいたいはどうでもいい理由で楽器を手放す。飽きた、バンドを組める知り合いがいない、仕事が忙しい、新たな趣味ができた、彼女が音楽嫌い、手を怪我した等々…。大抵はなんの起伏もない――「なんとなく」の域を出ない放棄だろう。ただ、世間様に同意が得られる理由がほしい…。そこで物語の出番だ。

物語の登場人物は懊悩する。いい音が出ない→仲間と衝突→自己鍛錬→ライブで成功…。金にだらしなくてもいい。なぜならバンドマンだから。女にも、酒にも、クスリにも…。だらしなさはあらゆる面で肯定されてしまう。なぜならバンドマンだから。いい音楽ができればそれでオッケー。俺はバンドマンだぞ。物語の主人公と自分は一致する。

そして物語のバンドマンは挫折のち栄光を手に入れた後、それぞれはミュージシャンに、会社員に、ヤク中に、奥さんに、フリーターに活躍の場を移す。放棄は安定した生活の維持というお題目に、自らの不遇はヌルい小さな幸せ(子ども、自分が育てたバンド等々…)にすり換えられる。全部が全部肯定される。

『シオリエクスペリエンス』はまだまだそんなところまで描きはしない。今のところ、読者に与える自己肯定感を(控えめに)含めた青春を描くことで、ただ、音楽に対して各々が持つエモい部分だけを抽出して描いている。「こんな音を出したい」。そんな口にだすのもはばかられるような青臭い感情。たぶんバンドをやったことのある人間が紛いなりにも悩んだ経験が描かれている。

大分に就活しにいったとき、仲良くなった運ちゃんがフェリーの喫煙室で熱く語ってくれたバンドを辞めた理由は「俺が思ってた声が出なかった」だった。別に、自分がプロになれるなんて大抵の人間は思っていない。でも、そこに行こうとしてたんだと虚勢を張る人間を誰が馬鹿にできるのか。「青臭さ抜きの人間はどうも胡散臭い」と思う――明日会社に行きたくない会社員だった。

2016年1月31日

批評の戦略として倒錯した自意識のずれを「平凡」と規定するのはままあることだと思う。凡庸か愚鈍かはさておき、それ以前の「平凡」はいわゆるサブカルのくくりで語られるのは、太田出版とかから出てる青春マンガを語る際に見かける。一例を挙げるなら、浅野いにお作品。

ジュンク堂をうろついているときに買った『なんとなく、クリティック1』の小特集でも論者は一定の留保を置きつつ、褒める。いわく、「平凡なものの平凡な人生によって物語を成すという作品テーマ」(さやわか)。いやいや平凡ってなんですか、という感じ。他の論者を見ると、もう最悪。結局、「つまんないけど若い時分に読めばハマるよね」てなもんである。

「Aが持つ自意識」のAになにを入れてもいいけど、少年とか非モテとかバンドマンとかライターとかワナビとかなんでもいいけど、「自分は人と違う」でメシを食いたい人間のプライドをなでなでする作品を上から目線で批評する浅野いにお=成功者=ライター様の説法に俺は金を払ってしまったのだと思うと悔しくて涙が出てくる。

なぜか。俺がサラリーマンだからである。

以上。