2014年12月23日

10時頃起床。正午過ぎに学校へ向かう。ウォーラーステインに触れた授業を受ける。そのうち『トラクリ』読まなきゃなあ。水メジャーなんてもんがあるらしい。ふと宇沢弘文を思い出す。図書館で左翼的文献を二冊借りた。一冊は読まずに返却しそうだが…。

吉本隆明の『詩とはなにか』を府立図書館で借りてきたのだが、ふと思うところがあって昨日だったかな、「なぜ書くか」をさらっと読んだ。「書く」ことを主題化する批評家というのは当然多くて、小林秀雄なんかまさにその筆頭というイメージがある。「書くことのむずかしさ」なんてアタリマエのことをいうな、と蓮実が批判していたんだがあれはなんだったか。それはさておき、吉本隆明は「〈書く〉ということは、わたしには耐えるということと同義である」と言っている。「懸垂」だそうだ。そして「過渡状態」だとも。まあ、ここから「大衆の原型」(原像とはいわないんだな)に続くのだが、それはいい。いずれにせよ、吉本はそういう対象に向かって書いているそうだ。さてさて、上に書いた「思うところ」というのは最近、俺にこらえ性がないことを再確認することがたびたびあるのだ。まあこんな有り体な悩み(凡庸?)みたいなものははしかのようなもんで、寝れば忘れるわけなのだが、忘れきることができず時々頭をもたげてくるのが厄介なところである。とまあ吉本隆明もだいたい同じようなことを言っていて、心の慰み程度にはなったという報告。

学校からの帰り道、以前読み進めてたけど途中で読むのやめた『反原発の思想史』をパラパラとめくっていた。『猫のゆりかご』では終末が描かれていたとは昨日書いたが、訳者の伊藤典夫の解説にボネガットは当初アングラ作家だったと書いてあった。支持層は大学生で、ヒットするまではペーパーバック作家だったと。つまり、今でいうところのサブカルなんだろう、か。そして、『スローターハウス5』を筆頭に戦後の文学者だというのは自明。さらに、『猫のゆりかご』では原爆がキーになる。で、『反原発の思想史』に、あくまで日本の文脈でだが、「原爆の発明と投下は「世界の終末」という意識をもたらした」という記述があって、その痕跡はサブカルに残ってるらしい。あまり興味はなかったけど、日本でのボネガット受容をもう少し真面目に調べようかなと思う。

もう少し書きたいことあったけどめんどくせえので終わり。