2016年1月31日

批評の戦略として倒錯した自意識のずれを「平凡」と規定するのはままあることだと思う。凡庸か愚鈍かはさておき、それ以前の「平凡」はいわゆるサブカルのくくりで語られるのは、太田出版とかから出てる青春マンガを語る際に見かける。一例を挙げるなら、浅野いにお作品。

ジュンク堂をうろついているときに買った『なんとなく、クリティック1』の小特集でも論者は一定の留保を置きつつ、褒める。いわく、「平凡なものの平凡な人生によって物語を成すという作品テーマ」(さやわか)。いやいや平凡ってなんですか、という感じ。他の論者を見ると、もう最悪。結局、「つまんないけど若い時分に読めばハマるよね」てなもんである。

「Aが持つ自意識」のAになにを入れてもいいけど、少年とか非モテとかバンドマンとかライターとかワナビとかなんでもいいけど、「自分は人と違う」でメシを食いたい人間のプライドをなでなでする作品を上から目線で批評する浅野いにお=成功者=ライター様の説法に俺は金を払ってしまったのだと思うと悔しくて涙が出てくる。

なぜか。俺がサラリーマンだからである。

以上。